歴史から学ぶ大和魂

歴史を紐解き、日本人の大和魂が垣間見えるエピソードをご紹介いたします。

本居宣長の「もののあはれ」と神風特別攻撃隊

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本桜と本居宣長出生が桜の名所・吉野にある水分(みくまり)神社と関係している宣長は、24 歳の頃に桜を好み始めます。国学を研究し、もののあわれについて持論を展開していく中で日本人の精神に迫った宣長は、自身の還暦を記念した自画自賛像に「敷島の」の歌を書き添えました。日本精神の象徴は、朝日に映える山桜のような麗しさ、そしてその美しさを五感で感じるところにあり、散り際の桜に見出されるものではありません。宣長の思想は、軍国主義やその元となるものとは異なっていました。宣長の思想の礎である「もののあはれ」は、暴力や力、死とは相容れないものであったのです。また、桜観においても宣長は桜を死の象徴とは結び付けずに、五感で感じたままの美しさ、桜を見たときにただ綺麗だと思う「みやび」を真髄であるとしていたのです。「敷島の」の歌は、宣長もののあわれ観の表出であります。桜を愛し、日本を愛した宣長が行き着いたのは、朝日に映える山桜の美しさ、麗しさこそが大和心であるということだったのです。「敷島の」の歌は、軍国主義を経て多くの人々に曲解されるようになったということが確認されましたが、また、そのような曲解をされるに至ったのは、特攻隊を考案した大西瀧治郎が、最初の特攻部隊の名称を宣長の「敷島の」の歌から採り、「敷島隊」「大和隊」「朝日隊」「山桜隊」とつけたことが契機だと考えられます。そしてその背景には、その頃すでに桜が散り際の美しさを象徴するものとして認識されていたという事実があり、宣長軍国主義の結びつきは戦後まで受け継がれました。しかし、純粋の大和魂が発揮が見えた神風と大和ごことは連関があるのかもしれません。