歴史から学ぶ大和魂

歴史を紐解き、日本人の大和魂が垣間見えるエピソードをご紹介いたします。

益田親施と禁門の変

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益田親施(ますだちかのぶ)長州藩永代家老・益田元宣の3男として1802年に生まれました。益田親施の益田家は、もともと毛利元就に仕えた家老で、周布政之助も一族であります。父・益田元宣は村田清風と共に藩政改革に当たり、明倫館の拡大移転も総奉行として活躍していました。そんな父が1849年3月に死去すると、兄・益田親興も既に他界していた為、亡くなっていたため、須佐領12063石の家督を継ぎます。この年、山鹿流兵学者である吉田松陰に入門もしています。 1853年、ペリー提督の黒船来航となると、徳川幕府より長州藩が相模防衛を命じられ、12月に相模国浦賀警備惣奉行の役を授かり、1854年2月江戸に到着します。3月には加判役を兼務している。 1855年4月、長州に戻ると、1856年4月に国元当職(国家老)となり、藩政改革に尽力する。ハリスとの通商条約締結問題となると、1858年、周布政之助らと徳川幕府に攘夷を決行するべきだと建白します。「朝廷に対しては忠節、幕府に対しては信義、祖先には孝道」という長州藩の三大原則を唱えました。1863年7月に上洛すると孝明天皇に真木保臣らと攘夷親征を提言し、大和行幸の勅を引き出しました。しかし、中川宮・薩摩藩会津藩の抵抗にあい、八月十八日の政変となり、 そして、益田親施(益田兼施)は7人の公卿と共に長州に帰国しました。その後、長州藩復権の為、福原元僴、国司親相(国司信濃)ら3家老の1人として、久坂玄瑞来島又兵衛国司親相らと京に兵を送ると、総大将として指揮しました。禁門の変では、久坂玄瑞と共に山崎天王山に布陣したが、薩摩藩会津藩らに敗れ、天王山で殿を務めた後、負傷者を駕篭で送るなどして長州に帰国しています。御所に向かって発砲したことで、長州藩は朝敵となり、責任を取る形で所領・阿武郡須佐にて謹慎しました。そして、第一次長州征伐となると、政権は恭順派(保守派)椋梨藤太らに握られ、8幕府軍より3家老は責任を問われる事となり、徳山藩に身柄を預けられます。その後、筆頭家老・益田親施と家老・福原越後、家老。国司信濃の3家老の死を持って幕府と和睦することとなり、惣持院にて切腹しました。この時、三家老を奪い取ろうとする動きがあったため、1864年11月12日の処刑の予定が早まり、前日11日夜に自刃を命じられています。(享年32歳)

国司信濃と禁門の変(蛤御門の変)

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長州藩家老・国司親相(国司信濃)寄組・高洲元忠の次男として誕生し、同じ寄組の国司家(五六〇〇石)の養嗣子となり、五歳で家督を継ぎました。
国司家は毛利元就の嫡男・隆元の傅役を務めた元相に遡る重臣の家系です。寄組の中でも最上位の名家であることに加え、信濃は幼時から聡明で、家中でも期待される青年幹部に成長しました。長州藩文久元年(1961年)以来、直目付・長井雅楽(うた)の「航海遠略策」に基づく公武合体・積極開国を唱えていたが、親密だった老中・安藤信正の失脚、島津久光の率兵上洛などで情勢は大きく変わっていました。藩内での立場が悪化した長井は文久三年(一八六三)二月に切腹し、長州藩論は破約攘夷に転換、このとき長井の検視の責任者を務めたのが国司信濃である。孝明天皇が攘夷祈願のため、上下賀茂社石清水八幡宮行幸され、攘夷の気運が高まるなか、将軍・家茂は五月十日を攘夷の期限として上奏し、長州藩はまさにその日に下関で外国船を砲撃した。国司信濃は久坂らとともにこの「攘夷」を主導し、下関防備総奉行に任じられている。京の主役となった攘夷派は、さらに天皇の大和行幸・攘夷親征を建議しました。八月十三日に詔(みことのり)が出されたが、会津・薩摩両藩を中心とする幕府勢力が八・一八の政変といわれるクーデターを決行、長州尊攘派三条実美(さねとみ)らの尊攘派公家とともに山口へ撤退「七卿落ち」。政変後の長州では、京都出兵を主張する来島又兵衛(きじままたべえ)らの進発論を、慎重派がかろうじて抑えていたのです。しかし、京に残された尊攘激派30名も斬殺・捕縛された池田屋事件に激昂し、福原越後・国司信濃・益田右衛門介の三家老が率いる出兵が決定した。元治元年(一八六四)六月、福原隊は伏見へ、海路をとった信濃隊は嵯峨に、益田隊は天王山に、さらに久坂の忠勇隊が天王山に陣を張りました。土佐の中岡慎太郎など京に潜伏中の浪士らも加わり、総勢2600名。目的は戦闘ではなく威圧による尊攘派の復権だったが、嘆願書の返事も得られないまま一橋慶喜から撤退命令が出された。この間に薩摩や会津など諸藩の軍勢が入京、幕府軍は一万人を超えた。状況は明らかに長州に不利だったが、七月十九日未明、「甲子の戦争」あるいは「禁門の変」「蛤御門の変」と呼ばれる戦闘が始まったのです。下立売御門・中立売御門・蛤御門の三方向から攻めた国司信濃隊のうち、来島隊が会津の守る蛤御門に殺到、一時は占拠する勢いだったが、乾門から薩摩の西郷隆盛軍が駆けつけて戦況は一変、来島は銃弾に倒れました。総崩れとなった信濃隊は寺町御門方面から天王山に退き、長州へ落ち延びた。久坂と真木は自決、福原・益田隊も逃げ帰り、長州軍の惨敗となったのです。

来島又兵衛と禁門の変(蛤御門の変)

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来島又兵衛長門国厚狭郡西高泊村長州藩・無給通組の次男として生まれました。若い頃より文武に長け血気盛んだったようで、大津郡俵山村の大組上士・長門来島家の来島又兵衛政常の跡取りとして婿養子となりました。1841年、九州・柳川藩に赴くと、大石神影流の創始者であり、天保の三剣豪の一人と称された大石進から剣術を学んでいます。体が大きく、剣術、槍術、馬術は達人の腕前で武人として名を馳せ、形のみでない実践的な武芸をと藩庁に提案し、村田清風の賛同を貰っております。1846年、江戸に出ると、久保田助四郎道場にて更に剣術修行に励み、武芸の達人になり、算術にも優れたようで、吉田松陰からは「来島又兵衛は胆力人に過ぎ、又精算密思あり」と評されている。1851年1月に来島家の家督を継ぎ、累代の名前を継承し、1852年7月28日に来島(又兵衛)政久と改名した。1863年5月、下関で攘夷戦が始まると馬関総奉行手元役(家老・国司信濃の参謀)として戦闘に参加。6月、藩命により猟師を集めた狙撃隊80名を率いて上洛し、禁裏守衛の任に当りました。八月十八日の政変の際には、京都を留守にしていたが、翌日、尊皇攘夷派が追放される際に、共に萩に戻ったと考えられる。10月1日、真木和泉の説得に押された山口藩庁は、都落ちした七卿を伴って卒兵上京するための準備をするよう諭告を出します。これを受けると高杉晋作奇兵隊を創設していたのにも触発される形で、来島又兵衛も町民や農民を集めて、三田尻久坂玄瑞と共に「遊撃隊」を創設し自ら総督となりました。そして、高杉晋作は富国強兵を唱えたが、来島又兵衛は、この機を逃してはならないと「進発論」を主張し始める。周布政之助桂小五郎高杉晋作は危険過ぎると進発論に反対したが、来島又兵衛は受け付けず、上京の命令が出ないなら脱藩してでも上京すると言い出し、1864年元旦には出奔します。京都に潜入して桂小五郎久坂玄瑞らと対応を協議したり、薩摩藩島津久光の暗殺計画を立てたが、帰国命令を受けたため長州に戻ると、3月29日に脱藩の罪で投獄されました。桂小五郎久坂玄瑞の自重論を重く見た長州藩は、卒兵上京を延期する代わりに来島又兵衛を形勢視察の名目で京都に向かわせます。1864年4月10日に京都の長州藩邸に入った来島又兵衛は「忠臣蔵」に習って、火消装束やら鎖帷子を購入して、会津藩主・松平容保への襲撃を企てました。警備厳重のため計画は実現しなかったが、参預会議の解体で公武合体派諸侯が相次いで京都を離れたため、今こそ決起の時と益々奮発します。萩に戻った来島又兵衛久坂玄瑞は進発論を唱え、周布政之助はが熟すのを待つように宥めていたが、長州藩からの請願を今後一切受け付けないという朝廷からの宣告で進発論が優勢になったところで、6月12日に池田屋事件の知らせが飛び込んできました。この知らせで長州藩の藩論は一気に進発論に傾き、藩庁は出陣を命令を行います。出陣した際の来島又兵衛の姿はは風折烏帽子に先祖伝来の甲冑と陣羽織をまとい、戦国時代の絵巻物から抜け出してきたような風貌だったといいます。6月21日に大坂に到着して、6月27日に京都の天龍寺に入り、長州軍2000の着陣を受けて、国司信濃、益田右衛門の部隊が到着すると、徳川慶喜は撤兵説得のため来島又兵衛に使者を送ったが当然、来島又兵衛は拒否します。次に永井尚志を使者に立て、7月17日までに撤兵するよう、来島又兵衛に要求しました。来島又兵衛は7月17日に最後の軍議を開催。久坂玄瑞、福原越後、宍戸左馬之助らに準備は整ったかと聞いたが、誰も答えず、怒った来島又兵衛は「この期に及んで」と怒鳴りつけたと言います。久坂玄瑞は、長州からの主力部隊9000が到着するまで待つべしと主張したが「卑怯者はワシの戦いを見物しろ」と言い、真木和泉もこれに賛同。翌日夜半に進撃開始と決定されました。7月18日夜半、長州の部隊は2つに分かれ、来島又兵衛は自ら遊撃隊600名を率いて、蛤御門へと向い、午前5時頃には、会津藩兵と戦闘が開始され、門を打ち破って会津軍を追い詰めたが、幕府軍は20000の大軍で迎えます。来島又兵衛は乾門を守っていた西郷隆盛率いる薩摩軍銃撃隊・川路利良の射撃で、来島又兵衛は胸を打ち抜かれて負傷し落馬しました。重傷を負い、助からないと悟った来島又兵衛は、甥・喜多村武七に介錯を頼み、自ら槍で喉を突いたと言います。享年48。その後、総崩れとなった長州藩兵は潰走し、久坂玄瑞、寺島忠三郎、入江九一真木和泉らも次々と自害しています。

真木和泉と禁門の変(蛤御門の変)

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文化10年(1813)3月7日、筑後国久留米城下瀬下町にある水天宮神官真木左門旋臣(としおみ)の家では待望の男の子が呱々の声をあげた。幕末維新の志士たちの多くがまだこの世に生まれ出ていなかった。
真木和泉を中心に数えれば、横井小楠4歳、佐久間象山が2歳年上であることを除けば、以下の人はすべて年下で、西郷隆盛14年、平野国臣15年、吉田松陰大久保利通は17年、木戸孝允23年、高杉晋作にいたっては26年も年下である。真木和泉は両親から五尺八寸の身長、しばしば力士に間違われたところの肥満した体躯、角ばった赤銅色の顔、広く秀でたひたい、跳ね上がった薄い眉、威力のある目、大きな耳と口、太く短い首、そしてやや猫背の容姿を受け継ぎ、加えるに討幕唱始者として久留米一藩を驚倒させ、天下の耳目を聳動させたあの激しい気性を受け継いだのである。ところが幼年時代の和泉は、長男の故か起居動作に老成人の風あり、同年輩の子供らと遊び戯れることがなく、豪放闊達とうよりむしろ小心翼々たるものがあったといわれる。読書にはよくはげみ、母柳子の言うところでは読み書きせよと命じられることなく、むしろ勉学に過ぎて病気にかかるのを心配したほどであったとされている。このころから楠正成の伝記に親しんでいたという。長じて楠公崇拝は勤皇思想と結びつき、その威力は周りの人々を巻き込んでいくことになる。

真木和泉禁門の変の前の活動として、長州藩を足がかりに攘夷親征、大和行幸計画を名目とする討幕を目指すが、文久3年8月18日、会津藩と薩摩が結託して長州藩を追放した政変で挫折(八月十八日政変)、長州藩の御所警備は解かれて、薩摩・会津がこれに代わり、三条実美ら七卿は長州に落ちた。和泉も七卿に従い、日夜その対策に参加した。和泉はしばしば建言して武力をもって上京し、君側の奸を除き、8月18日以前に返すべきことを力説した。それを著したのが10月に著した「出師三策」で軍事力による朝廷奪回を主張している。ついに、長州藩主は国老福原越後、国司信濃をして兵を率いて上京させ、哀訴することにした。和泉は浜忠太夫または甲斐真翁と変名し、各藩浪士で組織した清側義軍300名を久坂玄瑞とともに総管して、ともに上京した。元治元年(1864)6月24日、清側義軍は山崎に到着し、天王山に陣営を構え、久坂玄瑞・中村円太などと連署して七卿復帰・長州公の入朝・攘夷の発令の哀願書を閣老稲葉美濃守に託したが上に通じなかった。元治元年7月の禁門の変では久坂玄瑞来島又兵衛らとともに浪士隊清側義軍の総管として長州軍に参加、7月19日、堺町御門を目指して進軍したが、福井藩兵などに阻まれて敗北。天王山に退却、長州へ敗走することを拒否して和泉は21日、天王山において、挙兵の責を痛感して自刃した。このとき、弟直人・息子菊四郎はともに死を願ったが、和泉はこれを止め、後日の再挙に託して、ここを去らせた。そして同志17人とともに、「大山の峰の岩根に埋めにけりわが年月の大和魂」の辞世を遺し、割腹した。時に52歳であった。和泉以下17人の屍は宝寺塔前に埋められたが、その墓はいつしか「残念さん」と言われて参詣するものが後を絶たなくなった。幕府はこれを忌んで、衆人の登山を禁じ、その屍を宝寺山下の竹林に転埋した。明治元年9月、和泉の嗣子の佐忠が久留米藩の命により、17士の遺骨を竹林の中から収集して、割腹の地に改葬した。

真木和泉の言葉】

「士の重んずることは節義なり。節義はたとへていはば人の体に骨ある如し。骨なければ首も正しく上に在ること得ず。手も物を取ることを得ず。足も立つことを得ず。されば人は才能ありても学問ありても、節義なければ世に立つことを得ず。節義あれば不骨不調法にても士たるだけのことには事かかぬなり」

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久坂玄瑞と禁門の変(蛤御門の変)

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1863年8月18日の八月十八日の政変で長州勢が朝廷より一掃されたが、久坂玄瑞は京都詰の政務座役として在京して失地回復を図ったが、一方で薩摩藩会津藩と手を組み、長州藩は苦境に立たされていきます。三条実美真木和泉来島又兵衛らの唱える「武力をもって京都に進発し長州の無実を訴える」という進発論を、桂小五郎らと共に押し止めるなど対応にも苦慮いたします。しかし、1864年4月、薩摩藩島津久光、福井藩の松平春嶽宇和島藩伊達宗城らが京都から離れたのを機とみて、久坂玄瑞急遽、進発論に転じ、長州藩世子・毛利定広の上京を請いました。そして6月4日、進発令が発せられ、福原越後、国司信濃ら三家老による藩兵が組織されたのです。また、池田屋事件の悲報が国許に伝わると長州藩内は、もはやその勢いは止められるものではなくなり、久坂玄瑞来島又兵衛真木和泉らと諸隊を率いて東上を開始しました。長州軍は京都内外に陣取り、藩主父子と五卿の赦免と入京許可、そして攘夷の国是確立を武力を背景にしつつ、6月24日、長州藩の罪の回復を願う「嘆願書」を起草し朝廷に奉上しました。長州藩に同情し寛大な措置を要望する他藩士や公卿も多かったが、朝廷はあくまで長州勢の退去を命じたのでありました。7月12日に薩摩藩兵が京に到着すると形勢が変わり、幕府は諸藩に令を下して京都出兵を促していた。7月17日、男山石清水八幡宮の本営で長州藩最後の大会議を開催。大幹部およそ20人ほどが集まった。久坂玄瑞は朝廷からの退去命令に背くべきではないと、兵を引き上げようとしていたが、来島又兵衛は「進軍を躊躇するのは何たる事だ」と詰め寄ったのです。久坂玄瑞は「今回の件は、もともと、君主の無実の罪をはらすために、嘆願を重ねてみようということであったはずで、我が方から手を出して戦闘を開始するのは我々の本来の志ではない。それに世子君の来着も近日に迫っているのだから、それを待って進撃をするか否かを決するがよいと思う。今、軍を進めたところで、援軍もなく、しかも我が軍の進撃準備も十分ではない。必勝の見込みの立つまで暫く戦機の熟するのを待つに如かずと思うが」と述べ、来島又兵衛の進撃論と激しく対立いたしました。来島又兵衛は「卑怯者」と怒鳴り「医者坊主などに戦争のことがわかるか。もし身命を惜しんで躊躇するならば、勝手にここにとどまっているがよい。余は我が一手をもって、悪人を退治する」と立ち去ったのです。最年長で参謀格の真木和泉も「来島君に同意を表す」と述べ、この一言で進撃の議はほぼ決まるのです。このように切迫した場面で、慎重論に同調する者はほとんどおらず、久坂玄瑞は止むを得ざると覚悟し、その後一言も発することなくその場を立ち去り天王山の陣に戻っていきました。諸藩は増援の兵を京都に送り込み、その数2万とも3万とも膨れ上がっていたのに対して、長州藩は2000で戦いを挑まざるを得なかったのです。7月19日早朝、長州勢は御所に向かって進軍開始し、御所を守る諸藩と交戦となりました。蛤御門を攻めた来島又兵衛の戦いぶりは見事なもで、会津藩を破り去る寸前までいったが、薩摩藩の援軍が加わると劣勢となり、来島又兵衛が狙撃され長州軍は総崩れとなりました。この時、狙撃を指揮していたのは薩摩藩士の西郷隆盛である。開戦後ほどなく久坂玄瑞は勝敗が決したことを知ったが、それでも久坂玄瑞の隊は堺町御門から乱入し越前兵を撃退し、薩摩兵を破ったのち、鷹司邸の裏門から邸内に入ったのです。久坂玄瑞は一縷の望みを鷹司輔煕に託そうとしたのであった。鷹司邸に入るとすぐ、久坂玄瑞鷹司輔煕に朝廷への参内のお供をし嘆願をさせて欲しいと哀願したが、鷹司輔煕久坂玄瑞を振り切り邸から逃亡しました。屋敷は敵兵に囲まれて火を放たれ、すでに火の海となっており、流弾を受け負傷していた久坂玄瑞は全軍退却命令を出した。
 入江九一らに「如何なる手段によってもこの囲みを脱して世子君に京都に近づかないように御注進してほしい」と後を託し、最後に残った久坂玄瑞は寺島忠三郎と共に鷹司邸内で自刃して果てました。(享年25歳)志半ばにして、その短い人生を終えてしまう結果となったのです。

禁門の変(蛤御門の変)

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蛤御門の変とも言う。この門は「新在家御門」と言われ開かずの扉であったが、1788年の天明の大火で御所が炎上した折、初めて開門された。この為、禁門が「炎で貝が開く」ことの比喩で蛤御門(俗称)と呼ばれるようになった。1864年に尊王攘夷派(長州藩)と徳川幕府会津藩)の戦いが勃発した。原因は前年( 1 8 6 3 )に遡る。

池田屋事件である。1863年長州寄りの公家七卿(注2)が、攘夷を祈願するため天皇神武天皇陵と春日神社への大和行幸を建議し布告した。しかし会津側は「長州寄りの公家は裏で討幕を計画している」と中川宮(注3)に訴えた。それを中川宮が天皇に奏聞した。天皇は長州寄りの三条実美ら七卿の官位を取り上げ、参議の毛利慶親を解任した(十八日の政変=七卿の都落ち)。孝明天皇には討幕の意思はなく、行政機関としての幕府との共存を願っていたからである。天皇の意思も知らない長州・土佐・肥後の尊王攘夷派は、都での失地回復を目論み時機をみて決起すべく、筑前の御用商人桝屋喜右衛門方に兵器類を隠したのである。しかし、この情報は新撰組の知るところとなり桝屋宅を捜索。結果、大量の兵器弾薬が見つかってしまった。京都守護職松平容保会津藩主)は、幕府に対して謀反の疑いありとして、長州藩士がよく使う池田屋に目をつけていた。1864年7月、長州を中心とした尊王攘夷派は「京都守護職松平容保襲撃の計画」を立て、具体的な打ち合わせのため密かに池田屋に集まった。このときを狙って容保は新撰組池田屋を急襲させた。そのため、長州を主力とする尊王攘夷派の多くの志士が殺された。運の悪いことに、この中に土佐出身で勝海舟坂本龍馬が所属する幕府の神戸海軍操練所の塾生望月亀弥太がいたのである。軍艦奉行かつ神戸海軍操練所総裁であった勝海舟は、勝自身幕臣でありながら討幕を企てた者を訓練に参加させていた責任をとらされ罷免されてしまい、また神戸海軍操練所自体も解散させられてしまったのである。ちなみにナンバー2としての塾頭は坂本龍馬であった。龍馬にとっても大きな痛手であった。長州は、この池田屋事件の報復として軍を率いて上京し、禁門の変蛤御門の変)を引き起こした。このとき、薩摩の小松帯刀のもとへ一橋慶喜より「皇居周辺より長州兵を退去させよとの朝命が下されたの

で、薩摩藩も出兵するように」と要請があった。このとき帯刀は「元々非常の節には皇居を警備するよう薩摩藩に朝命が下っているので、一橋公の命では出兵できないが、朝命であれば出兵する」と、薩摩藩の立場を鮮明に打ち出している。長州の兵力は3,000人。対する幕府軍約8万人。幕府軍の楽勝かに見えた。長州の国司信濃の率いる500余名は、蛤御門、下立売門、中立売門の三方面に攻撃を開始した。中立売門を護っていた筑前と一橋の銃撃隊は、たちまちに敗れた。会津下立売門を護っていたが、長州の猛将来島又兵衛による正面突破攻撃がなされ、会津はあえなく敗れてしまい、蛤御門も長州に占領されてしまったのである。一時的とはいえ、兵力差に劣る長州軍の士気の高さと兵器の違いが大きくものをいった。その後、西郷隆盛の指揮する薩摩軍が幕府軍の援軍に駆けつけ、長州より一段と勝る薩摩の誇る最新式大砲四門と最新式のスペンサー銃の威力により来島又兵衛の軍を打ち破り、さらに薩摩の抜刀隊の突撃により形勢を逆転させた。幕府側は薩摩軍のおかげで三門(蛤御門、下立売門、中立売門)とも取り返すことができたのである。勇敢に戦った長州の来島又兵衛は自刃して果てた。

池田屋事件とは、、

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新選組は尊攘激派浪士の京都市中焼討ちというテロ計画の情報を得て、急いでパトロールを始めたら浪士たちの池田屋における集会を発見し、闘争におよんだというのが定説になっています。浪士たちが池田屋に集ったのは、古高俊太郎が逮捕されたのを知って、その善後策を練るため密会を開いておりました。新選組パトロール隊は、午後8時頃に祇園会所を出発しております。近藤隊10名は河原町通を北上、土方隊24名は縄手通を北上し、周辺の旅籠や料亭の御用改めを開始しました。8時半頃に祇園界隈を調べる土方隊の目撃が記録されているそうです。近藤隊が三条小橋詰の池田屋に注目したのは夜の10時半過ぎだといわれます。 事件の三日後6月8日の日付で近藤勇が、江戸の養父近藤周斎ほか五名に宛てて出した手紙には「三条小橋、縄手二箇所屯致居候処へ、二手に分れ、夜四ツ時頃打入候処、一箇所には一人も居不申、一箇所には多勢潜伏致居り。兼て覚悟の徒党の族故、手向戦闘、一時余の間に御座候。打取七人、手疵為負候者四人、召捕二十三人、右は局中の手にて働に候」とあります。これをみると、新選組は一軒一軒調べて行って池田屋にたどりついたというより、浪士の潜伏先に、ある程度の目星がついていたようにも思われます。池田屋長州藩士の定宿でもあり、前もっての情報として、潜伏先の候補地が何箇所か上がっていたのではないかなと考えます。1864年7月8日夜に同年の4月以来、多数の長州人が京都に潜入しているとの情報を得た新選組は、監察部を動員して、さらなる探索を強化しておりました。6月5日早朝、新選組は四条小橋西入ルの薪炭商・桝屋喜右衛門を逮捕連行した。屋内を捜索した結果、多数の武器弾薬の他に「烈風を期とすべし」などと書かれた密書を発見しました。桝屋喜右衛門の正体は輪王寺宮家臣・古高俊太郎と判明し、厳しい拷問により、「御所への放火と反長州派の大名襲撃後、長州勢を京都に引き入れる」という計画実行のために、四条・三条あたりの町家や旅籠に多数の長州人が潜伏していることをつきとめたのです。報告を聞いた局長近藤勇は黒谷の会津本陣に急報し、出動を要請した。京都守護職松平容保は藩兵の出動を決断し、一橋(禁裏守護総督)、桑名(所司代)、町奉行所とも打ち合わせ、新選組には、この日夜9時をもって祇園町会所に集結する事を約しました。一方、古高俊太郎が逮捕されたことを知った尊攘激派浪士たちは、三条小橋西の旅籠・池田屋で集会を開き、善後策を協議することとなった。同日午後、祇園町会所に集合した新選組は武装を整え、所司代奉行所の出動をじりじりして待つが、ついに単独で1時間早く捜索を開始することを決断した。32名の隊士を二手に分け、近藤勇が9名、副長土方歳三が23名を率いる。新選組は夜8時頃から、三条あたりの茶屋・旅籠など、しらみつぶしの捜索を開始した。近藤隊は河原町通を北上。三条小橋まで出て池田屋に注目したのは四ツ(夜10時半頃)ごろだといわれる。近藤は隊士たちに裏表を固めさせると、沖田総司永倉新八藤堂平助のわずか3人を率いて表口から進入し、御用改めである旨を告げる。亭主は驚き、2階に知らせようとするが、階段を駆け上がった近藤は、そこに抜刀して待ち受ける20人あまりの浪士たちを発見した。「新選組の御用改めである。無礼すまいぞっ!」と大声で一喝。斬りかかる浪士を一刀のもとに斬り捨てる。こうして「池田屋事件」として有名な2時間余の激闘が始まったのです。鎖を着て、籠手脛当てで完全武装の新選組だが、多勢に無勢です。近藤隊は苦戦を強いられるが、四条縄手通を捜索していた土方隊が駆けつけることにより攻勢に出ました。 近藤勇は表口と裏手を固めさせると、炊事場に永倉新八、中庭に藤堂平助を配置し、沖田総司と二人で奥の階段を上がりました。この事件で新選組は激派浪士を7人(宮部鼎蔵、吉田稔麿、広岡波秀、福岡祐次郎、大高又次郎、望月亀弥太、石川潤次郎)討取り、23人を捕縛(松田重助、山田虎之助など)するという大手柄をたて、浪士たちの陰謀を阻止したのです。近年、会津・桑名・彦根や町奉行所も探索に加わっていたとされ、池田屋襲撃も新選組の単独行動だったのか疑問が出されています。その後も、会津や桑名の藩兵とともに残党狩りを行い、翌日正午ごろ屯所に帰営した。隊士たちは皆、返り血を浴び凄惨な姿だったといわれております。新選組の死者は奥沢栄助ただ一人。重傷者は安藤早太郎、新田革左衛門、藤堂平助の3人だった。会津、桑名、彦根藩兵にも死傷者が出ております。長州藩桂小五郎は当夜8時頃に、いったん池田屋を訪れましたが、まだ同志が集まっていなくて、出直すつもりで近くの対馬藩邸に行っていたので、難をまぬがれたといわれます。

池田屋事件の生還者、有吉熊次郎

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有吉熊次郎は、長州藩士、尊皇攘夷派の志士で熊次郎は通称で、諱は良明、本姓は藤原氏を称し、墓碑の刻字には藤原良明とあります。贈正五位で、作家有吉佐和子の曾祖父にあたります。天保13年(1842年)に長州藩士有吉忠助の次男として生まれます。藩校の明倫館に学んだのち、16歳の時に土屋蕭海の紹介により吉田松陰松下村塾に入塾します。松陰は、才の岡部富太郎、実直の有吉、沈毅の寺島忠三郎と評して、この3名を一つのグループとして力にしようと考えました。 安政5年に松陰の老中間部詮勝暗殺計画に血盟をしたことから、外叔の白根多助により家に幽閉されます。松陰が野山獄に再投獄された際は、その罪状を問うために周布政之助ら重役宅に押しかけた塾生8名の中の一人であります。 その後、高杉晋作に随い御番手として江戸へ遊学、桜田の藩邸内にある有備館に入ります。 高杉ら同志と武州金澤(金沢八景)で外国公使を刺殺しようとしたが、計画が事前に藩主世子の毛利定広に伝わったため実行に到らず、謹慎を命ぜられます。謹慎中の同志は御楯組結成の血盟書を作りますが、この時に血判署名した同志は有吉を含む【高杉晋作久坂玄瑞、大和弥八郎、長嶺内蔵太、井上馨、松島剛蔵、寺島忠三郎、赤根武人、山尾庸三、品川弥二郎】の11名であり明治以降の政府や要人になる人物と同じ時期を立場も近いかたちで過ごしておりました。品川御殿山の英国公使館焼き討ちに参加します。 そのあと藩命により航海術を学び、その後、京都学習院への出仕を命じられ、京洛での尊攘運動に邁進します。元治元年(1864年)の池田屋事件では、吉田稔麿ら同志と会合中に新選組に襲撃されるが、乱闘から長州藩邸に逃げ込み、事件の生き証人としてその悲報を国許に伝える。その際、事件により厳重警戒中の京都を飛脚に変装して出立している。同年、急進派の藩士らと上京、禁門の変蛤御門の変)において重傷を負い、久坂、寺島らとともに鷹司邸内で自刃します。(享年23歳)

殺された池田屋の主人

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文政6年(1823年)に生まれ、出身地は長州といわれているが不明であります。その後、京都三条通りの三条小橋西4軒目の北側に旅籠・池田屋を開業し、長州藩士の定宿となります。元治元年(1864年)6月5日の夜に起こった、池田屋事件では、御用改めに入った新撰組近藤勇を見るなり、奥の階段下まで走って御用改めが入ったことをつげ、近藤に殴られて気を失ったといいます。また、近藤隊のあとに到着して突入した井上源三郎隊・原田左之助によれば、気をとりなおして、捕縛された浪士の縄を解いて逃がそうとして、浪士ともども捕縛されたというが、家族と裏から親戚の家まで逃れ、後日捕らえられたともいう。惣兵衛と捕らえられて六角獄に入牢された池田屋手代・彦兵衛の証言では、惣兵衛は拷問にも耐えて、一切口をわらなかったといいます。しかし、それにより7月13日に獄死した(42歳)。遺体は、妻のまさたち家族が密かに浄円寺に埋葬したといいます

大高又次郎と池田屋事件

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安政5年(1858年)に大高又次郎は脱藩し上京、梅田雲浜頼三樹三郎吉田松陰先生門下の野村和作などの志士と交流を持ち梅田雲浜宅に住み込んでいました。安政6年には萩へ赴き吉田松陰先生とも会談を行っております。この際、長州藩主が参勤で伏見に立ち寄った際に京の活動家貴族と対面させる計画を持ちかけましたが、藩重役の反対にあい計画は頓挫しています。大高又次郎はその後、安政の大獄により梅田が捕らえられたのを追って江戸に潜伏しました。梅田の処刑後で、自らにも幕府の追捕が迫ったため、浅草寺で坊主に変装して江戸を脱出しました。京都の長州藩邸に逃げ込み、その後古高俊太郎住居別棟に居住、武具・兵器の調達を担当するなど尊皇攘夷活動を続けたのです。
元治元年(1864年)6月5日、義弟・忠兵衛とともに池田屋事件に遭遇しましたが、奮戦むなしく新選組によって討たれました。(大高又次郎・42歳)明治に入ってから正五位を贈られております。